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MALVINAS戦争に志願した日系二世

(「日本アルゼンチン交流史 はるかな友と100年」日本アルゼンチン修好100周年記念事業組織委員会 (社)日本アルゼンチン協会。第4章、79頁、1998年12月発行)

1982年3月末、首都ブエノスアイレス市内の中心部に位置する大統領府前の「5月広場(Plaza de Mayo)」では、多くの一般市民を含んだ労働組合主催の大規模デモが行われていた。1976年3月のクーデターにより発足した軍事政権への不満と長期の経済停滞への起こりを訴えていた。

3日後、ガルチェリ大統領は突然マリビーナス諸島への軍事作戦を実施した。当初は、150年振りに以前から主張していた同諸島の主権がアルゼンチンに復帰したと、ほとんどの国民が喜んでいたようにみえた。しかし外交情勢が緊迫するにつれ、それまで兵役で軍事訓練を受けていた若者達に召集命令が出された。こうした状況の中、私は、所属の歩兵部隊第6連隊(ブエノスアイレス州のメルセデス市)に自ら出頭したが、大学生活を送っていた私への配慮ということで、連隊長のアルペリン中佐の指示で駐屯地に残ることになった。

しかし、連隊の約半分が空軍のパロマル基地に移動したころ、一人の兵士が上官に、子供が産まれたため病弱な妻を残してブエノスアイレスを離れられないと話していた。貧しいため、自分が生計を立てなければ家族も困ると必至に頼んでいた。私は、なんの迷いもなく所定の手続きを行って彼の代わりに荷物と銃を受け取った。結果的にこれが志願の動機になってしまったのだが、既に召集命令は発せられていたので、一国民としての義務を果たしただけなのである。次の日に午前10時ぐらいには、マリビーナス諸島のプエルト・アルヘンティーノ(英国側ではポート・スタンレーと呼んでいる)に到着していた。4月13日のことであった。

我が連隊は4つに分散され、各中隊や小隊は命じられた地区で任務についた。毎日、ラジオや司令部の通達を聴きながら外交交渉に望みを託しながら島の守備を固めた。そして、5月の1日、砲火の洗礼を受けた。英国の空軍は空港や通信施設等、ポイントを絞って攻撃してきた。フリゲート艦数隻からはミサイルが発射され、数人の死者と多数の負傷者がでたが、私がいた中隊の仲間は皆無事であった。

それから約一ヶ月半、毎日のように朝昼晩、身動きがとれないほど空と海からの砲撃を受けた。ほとんど塹壕の中で過ごさなければならない状況だったが、夜の気温もマイナス5度から15度に下がり、冷たい風に当たると口を動かすことさえもできない状態だった。水と食料は、はじめから随分不足しており、時が過ぎることによって体力はかなり消耗していた。中隊の中でも命令系統の乱れや下士官への不満が高まっていた。

その上、最後の3日間には敵のすさましい攻撃を三夜連続受けた。こうした情勢の中で、メネンデス司令官は無条件降伏し、全軍に停戦命令を発した。この戦争で約600人が戦死し、1.500人が負傷した。40日間の戦闘でマリビーナス諸島に配置されていたアルゼンチン国軍の約30%が大きな打撃を受けたことになったのである。

6月20日、アルゼンチンの「国旗の日 - Dia de la Bandera」に、私はブエノスアイレスに帰還した。与えられた任務を達成できなかったということと戦争に負けたという複雑な想いで両親や兄弟、友人達と喜びの再会を果たした。

この戦争以来、6月10日は「主権の日 -Dia de la Soberania」とされ、毎年、全国的にマルビーナス諸島回復の願いを込めて戦没者たちへの英霊を弔う。ここ数年、各地で慰霊塔が建てられており、ブエノスアイレス市内の中心部、レティーロ駅近くの広場には戦死した兵士や上官の名前が刻んである塔がある。また、定期的に帰還兵の集まりのも行われている。

戦争は本当に悲惨であり、短い二ヶ月間の戦闘であっても、人間の強さと脆さ又はその限界というものを教えられた。砲撃してくる敵とは別に、自分を取り巻く環境や仲間や上官への信頼を試すことも苦しい戦いであり、苦い体験であった。

マリビーナス戦争は早まった政治・外交判断と不備の多い軍事作戦で、あまり望ましくない結果を招いてしまったのだが、国のために戦い命を落とした兵士への敬意と戦争の記憶はこれからも伝えていかなければならない、という見方が少しずつアルゼンチン社会にも浸透してきている。それに、今、民主主義が定着しているのも、あの戦争が民政移管を加速させ国民の責任ある社会参加の意識を高めたからであると多くの人は確信している。

(1) 最後になるが、当事国であったイギリスや欧米各国からアルゼンチンへの経済通商断絶を迫られながらも、それに応ずることなく独自路線を歩んだ日本国や「7月9日大通り Avenida 9 de Julio」の集会に参加した日本人や日系人たちに、また何らかの形であの戦争が平和的に解決するよう兵士達の無事を祈ってくださった日本とアルゼンチンの皆様に感謝の意を表明したい。

両国の100周年を機に、これからも互いの信頼と友好を心から願う次第である。

注(1):1990年2月には、断絶していた国交が全面的に正常化した。そして、1995年9月には、両国の外相が同諸島周辺海域での石油探査、採掘に関する合意文書に調印した。一ヶ月後、両国の首脳会談が行われ、新たな信頼関係と地道な外交努力が再スタートした。民主的に選ばれていない指導者が間違った手段で同諸島への主権を軍事的に主張したことで、主権回復の道がかなり遠ざかってしまったということが大きな歴史的教訓になったことを忘れてはならない。

 
 
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